#maddlog

青い食べ物やインテリアが好きな人です。最近はパンばっかり。

引越は、体力消耗より精神消耗のほうが激しいのではないかという持論。

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引っ越しに慣れている人はすでに精査されていると思う。が。

 

あまり引っ越しを経験したことがない人で、室内にモノが多いという人は、たいてい引っ越しをすると精神がやられがちだ。いろんなものをダンボールにいれて取捨選択していくという作業が発生したときに、いままでもっていたものを手放すという選択肢を迫られたり、捨てるという作業をすることが、精神を削る行為につながるからだ。

 

思い出と向き合うということは、その当時の自分や、見えていた景色が思い出される。しみこんでいる記憶がよみがえると、それだけでやられてしまうものだ。記憶は脅威に変化する。引っ越しの日程スケジュールが決まると、それらは待ってくれない。決められた時間の中に人が立たされたとき、ダメージのでかい人を見ると、その苦悩している姿を気の毒に思うこともある。

 

こういうのは普段から家にものがない人や、引っ越し慣れしている人にはダメージが少ない。向き合うものがすくないからだ。何が最低必要で、どれを捨てるかというイメージを持ちながら次のことを考えて行動できているケースの場合、購入についても念頭においていると普段の買い物での取捨選択の仕方も違う。

 

そしてモノを捨てたことがない人が抱きがちなのは、捨てるという恐怖だ。

 

私もかなり家にものがあるが、だいぶへってくるともう少しだけ頑張れるかなと思う。本来ならガッツリいくべきだが、自分は何年もかけて処分している。だいぶ捨てることにも慣れてきた。今自分に必要なものが何で、何がいらないのか。こういうのも鍛えられてくるものなんだろう、片づけられない人にとっては。かつて私は足の踏み場もないような部屋にいたが、さすがにもうそれはない。

 

そして私が最近思っていることは

思い出にとらわれると先にすすめないのではないかということだ。

よく過去は美化されるというが、これらも人の記憶で、思い出が美しくされているだけだ。だがしかし、実際のところ「今がいい」と言えなければ前にはいけない。私たちは前をむいて生きているはずで、後ろを向きながらすすみたいわけではない。

 

きっと思い出の品とともに、過去を忘れてる部分が自分にはあるだろうが、それでもいい。思い出せない記憶はたいしたことはないのだ。たいしたことであっても。

もし重要なら、それは然るべきときにちゃんとよみがえってくる。それはもう突然に。

 

記憶は完全に忘れられるものでもないのである。