#maddlog

青い食べ物やインテリアが好きな人です。最近はパンばっかり。

ALS、ホーキング博士など

彼のエピソードをみてると誰がこの絶望を克服できるんだろうとすらおもう。基本ALSはもう自分の体を自分で動かすことはできず、すべてのことに介助が必要となる。彼は絶望し鬱病になったが、うつの克服後はいろんなことを成し遂げた。どうも発想の転換がキーポイントのようだ。

 

現在いろんな成功者と呼ばれるひとたちのエピソードを読んでるけど、彼らは人の何十倍も努力しただけであって、その失敗は普通の人の倍である。perseverance、これがすべてだ。恵まれてるはずがない、単に耐えてすべきことを、やることをやめなかっただけだ。

 

人の幸せというのは、いくつか基準があるんだけれど、他者と比較して自分が劣ると考えるタイプはおそらく不幸に落ち入りがちなんではないかとおもう。こういったパターンは常に他人と比較して優越感を得てなければ幸せと思えないためだ。

貧乏であったり持病や生い立ちを比較してたら結構コンプレックスになる。そういう傾向の人は他人の見えない傷にたいして辛辣になる。自分が不幸だと思ってる分には勝手にそう思ってればいいんだけど、人が見せてない実は大変な苦労を見失いがちなので、毎回この手の思考に陥った人が他人の話ばかりおいがちになると攻撃しやすくなってるのをみると多分それはこれからもそれが助長される思考になるんだとおもう。私はそれを悪循環なんじゃないのかな、とはおもう。と思うのも、私は多分そこにもう時間をかけることは無駄だと思うからだ。

 

人生の時間で他人のあれこれに時間を割くというのは個人的にはゴシップよりな発想というか、暇をそこで使って濁らないかはきになる。メンタルの衛生的に、力をもらうぶんならまだしも、自分の時間を他人のことにつかうのは、自分の人生を他人に侵食させてないか?とここ一年よくおもうようになった。自分はなるべく遠ざけているようにしてる。

 

私は大学の先生で、苦労して入った大学の最中に筋肉が縮む病気にかかり、退学して湯治のために10年以上療養したという話がとてもためになったんだけど、そこで日本文学を読破した上でその人にとってつまらないと判断して英文学をよみはじめ、大学を30半ばで入り直したはなしがすきだ。まわりは若い中、きっと気になることもあったのではないかと推察するが、先生は折れることはなかった。人は生きていればなんでも可能性を得られるし、人を気にしてる場合ではないんだなとおもう。明日事故にあって死ぬかもしれないのに後悔ばかりとかはごめん被りたい。

 

私はいまいくつかの勉強をやってるし、コロナの中外にでる理由が最小限になったことをむしろ幸運だとすら感じるようになった。(感染症はもちろん良くないことだけど)

 

好きなことに時間を使えるということは強みだと思う。自分が無駄だという時間ですらたどり着くための過程となっていくのだから。

 

ではでは。