#maddlog

青い食べ物やインテリアが好きな人です。最近はパンばっかり。

一つの思考に支配されてはならないよ ※とても長い。

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※字書き職もやるけどちゃんと書いてないよ。勢いなので大目に見てくだされ。

 

 

恐らく「○○してないと自分はダメになる」例えば「仕事がないと自分は…」という思考であるということが、一つの思考に支配されているのだとおもう。人は仕事を手にしていなければならないわけだが、実際自分が死にかけるとなったとき「仕事から思い切り抜け出して○○をしていたらどうなっていただろうか」と思いをよぎらせたとき、結局のところ自分は踏み込みもできなかった「その程度」だったなとは思った。

 

最近じゃ「別に仕事やんなくてもいいわ、生きるほうが先だ。仕事?仮に休んでも絶対に復帰してやる。この世の中に人手の足りてない仕事なんてまだあるだろう」ぐらいにはなってる。自信があるわけじゃないし別にないんだけど、こういうリカバリへの精神を持つことによって、休むことが自分を生かすことなんだなと思っているからだ。なんであれ一つのことにとらわれることが「怖いこと」だとわからない限りは、その思考から脱却できないし(人によっては、この思考を脱却する必要がまだわからないだろう)、きっとそのまま生涯を終える。しかし、果たしてそれは幸せなんだろうか。(それとも不幸でいいと思っているのか、はその人にもよる)私はとにかく具合が悪い状態が一番腹立たしいので、そのためになら思考ぐらい変えてやるさぐらいには今なっている。

責任を感じて自分を自殺に追い込むぐらいなら、一瞬でも目の前の空のせいにしてしまうぐらいにする。「夏のせいだ」「雨のせいだ」「そこで鳴いてる蝉のせいだ」って。夏にとっても雨にとっても蝉にとっても「そんなの自分の責任じゃないやい」と迷惑がること間違いなしだが、少しだけ私のために負ってくれるだけで、私は救われているし、具合がよくなったらその倍感謝することにするし、ごめんなさいって謝るようにしている。彼らの寛容さには頭が上がらない。まぁそんなオーバーなこと考えちゃいないけどね。

 

自分のいいところは突然思い立って言語もわからないところに行っちゃったりするところなんだけど、比較的行った先で出会った人はもっと幸せにいきている、とすら海外にいってしまったりすると思う。これは日本でもそうなんだけど、「人はもっと適当でいい」をもっと身近に思わないとならない。日々成長していかなきゃならないなんていう焦燥感が逆に追い込みすぎてて人生クソにする。正直この思考に名前をつけて今すぐそれにとらわれてる人々の脳から抹殺したいぐらい個人的に恨んでいる。余裕がある人はいいが、無いならその思考は今すぐ捨てろ。崩壊へと自ら導くことが本来自分が幸せであるのか否か、身を犠牲にした成長が何を生むと思うんだ?やめられないってどういうことだ?さっさと死にたいのか?極限までいくと人は大事なものだとおもうものを捨てるという選択肢を選ぶこともあるとおもうが、だいたいその大事なものはあとで戻せる。必要なものは必要な人のところにきちんとかえってくる。信じろ。

 

いつか気づくと思うが、自分が風邪ひいてねてるあいだに人は成長している、などという悪しき勉強意欲は仮想の敵を作り上げてしまう。1日や1週間で成人の成長にどんだけでかい変化があるとおもってるのか?昨日よめなかったひらがなが今日よめるとかいう子供レベルの成長なんてねえんだよ。そもそも自分を人と比べてんじゃねえ。90年代のドラマ「未成年」のヒロだって屋上での演説でも熱弁してたから多感期に衝撃を受けてしまった俺はこういうことにはうるさいんだ。

無敵な人だってこの世のはいるのかもしれないが、たいていの人はもっとのほほんとしてたりするし適当だったりもっと怠惰だったりする。完璧な人なんていやしないのだ。(「自分は人と比べてるわけじゃなくてですね~でもォ~」とかそれでも思いながら読んでるなら今すぐ自分で自分を3回殴れ)単に運や言い回しがうまくて社内政治の果てにそんな大したことなくても実績あげてることもあるし、突然うまくいってた人が若くして突然病気で余命1年だってある。じゃあ自分はどうあるべきなんだ?毎日なにか実績のために身を削って仕事のことを考えるべきなのか?ってバカか?なんのためにいきて、なにをしたくて、なにを求めてるんだ?本当に自分がやりたかったことはつきつめられているのか?お前を構成しているものは何なんだ?その自問自答をしたことはあるんだろうか。

 

そしてこれをやるには想像力がいる。私はチェコ好きさんの「人は、想像力の範囲内でしか動けない」ということがかかれたエントリが好きで、思い出すとたまに読みに行くぐらい大好きだ。自殺する人が最後にした贅沢が「ファミレスのハンバーグを食べること」だったこと。その人は「○○をする」の想像ができてなかったこと。

これ読んだとき、あーまじかーそうだーこういうことだーってなったね。もっと違う人生を誰しもが歩めるはずで、さらにそこに大事なのは、勇気があるかどうかだ。

 

私は2年前に死にかけたときに「あーここで人生終わるのか。何もかも半端だった」ってなった。振り返れば何一つ納得できたことをしたことなんてなかったし、成し遂げたものもなかったし、やりきったこともない、仕事も社畜すぎて誇れることなんてなかった、あんなに毎日毎日頑張ってどうするかなんて悩んだ仕事にどんだけ支配されてたんだって思ったね。会社は別に正社員でもない私のことなんて正直どうでもいいと思うレベルだし、期待なんてそもそもしてるはずがなかった。個人間ではあったのだろうけど、でかい会社の社長でも役員でもない人間がだからなんだって話なんですよ。冷静になればたいしたこない人間が世界への責任レベルでもの考えてるなんて馬鹿げてるんです。私の言ってることわかる?

何も生まず、プライベートも特に満たされたものもなく、人からは「あの人朝早く来て土日も仕事してる人だね」って思われて死ぬのか…ってなったときに私は「自分の人生に納得いかなかった」ってなりましたね。こうなる前にかなぐり捨てられるものはもっとあったんじゃないかと。

そしてこの「納得いかない」が、先にきたから何がなんでも生きてやろうとなったんだとおもう。私はたぶん「納得いかない」があるとどうしても抗いたくなってしまう性らしい。死ぬわけにはいかないとおもった。少しでも残したかった。自分の好きななにかを。(でも何かっていうあたりがぼんやりしてる。雑。っていうツッコミもある)。

 

とまぁまたいろんな症状がでてきたりで、私はまたMRIなんかに今度世話になったりするようなことも予定としてあるのですが、年齢とともに結局は病気も増えていったり体の機能が落ちてきてるので、好きなことの優先順位と、その好きなことを本当に好きかどうかを中心に据えて生きてきてる気がします。

 

先日みた、私より10歳は離れてるであろう人が、たぶん来年まで生きてないかもしれないっていってて、表面は明るくふるまっているけど身辺整理をしてるだろう行動をみてると、私も覚悟をはじめている。あんなに人気なひとで明るくても、死ぬときは死んでしまうのだ。私は今も、どうかこれが嘘であってほしいとも思う。普段元気なのに突然「生きるに値してないとおもってる」などと言い始めたとき、マジかよとは思いましたね。お前生きろよ。俺の寿命数年ぐらいあげられるならあげるからさ。

 

 

人は誰もが幸せであるべきだと個人的には思ってます。

自分の人生を、好きなように生きるんだよ。